「私を使ってほしい」という欲求について

最近、自分の中にある不思議な欲求に気づいた。

それは、

「私を見てほしい」

ではなく、

「私を使ってほしい」

という感覚だった。

最初はうまく説明できなかった。

役に立ちたいのとも少し違う。

承認欲求とも少し違う。

でも何度も考えているうちに、

だんだん輪郭が見えてきた。

私は昔から、

「すごいね」

と言われるより、

「次もお願い」

と言われる方が嬉しかった。

喫茶店で働いていた頃もそうだった。

発注を任された。

締め作業を任された。

新人教育を任された。

改善案を採用してもらえた。

褒められることももちろん嬉しい。

でも本当に嬉しかったのは、

自分の能力が実際に使われた時だった。

最近、就労支援で台本を書いていても思う。

私は台本を書くのが好きなのだと思っていた。

でも、それだけではなかった。

書いた台本が誰かに使われる。

動画になる。

誰かに届く。

そこで初めて満足する。

ただ保存されているだけだと、

どこか物足りない。

その時に気づいた。

私は作品を残したい人ではなく、

機能したい人なのかもしれない。

なんだか機械みたいな話だけれど、

結構本気でそう思う。

整理できる。

構造化できる。

言語化できる。

台本も作れる。

改善も考えられる。

だから心のどこかで、

「必要なら使ってください」

と思っている。

そして面白いことに、

私は自分自身を持て余している感覚があった。

暇なわけではない。

やることがないわけでもない。

むしろ最近は結構動いている。

でもどこかで、

「まだ余力がある」

と思っていた。

今なら少し分かる。

能力不足だと思っていたのではない。

置き場所不足だと思っていたのだ。

工具箱を持っている。

でも使う現場が見つからない。

そんな感覚に近い。

だから私は今、

肩書きを探しているわけではない。

歌手になりたいのか。

配信者になりたいのか。

ライターになりたいのか。

そういう話ではなく、

「どこで最も機能するのか」

を探している。

そして最近思う。

もしかすると私は、

誰かの人生を大きく変えたいわけではないのかもしれない。

ただ、

考えが整理される。

言葉になる。

一歩前に進める。

そんな小さな手助けができたら嬉しい。

だから今日の発見はこれだ。

私は見られたいのではなかった。

使われたかったのだ。

少し変わった欲求かもしれない。

でも、その欲求を認めた時、

今まで感じていた「持て余し感」の正体が少しだけ分かった気がした。

私が探していたのは、

評価ではなく、

活躍できる場所だったのかもしれない。